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日本ヒマラヤ協会、タシ・カン登頂記(2009年)

昨年同様に単独でネパール入りし、西ネパール、Low Mustang地域のTashi Kang峰(6,386m)に登頂した。TBCとなったカリガンダキ河沿いのマルファ村から出発し、帰村するまでの間、出会ったのはトレカー1人、ツクチェ・ピーク敗退組みの数名とロバ使いといった10名足らず。昨今、登山者にも忘れられたような地域で、キャラバン途中のダンプス・パス(5,268m)からの下り以降は踏み跡も無ければケルンもない探検的要素を含めた登山を楽しめた。また、予定以上に順調に登山活動が終了したので、余った時間を「河口慧海記念館」を訪ね、聖地を巡礼し、ポカラの山岳博物館見学、カカニの丘からガネッシュ・ヒマール見物などに費やし収穫多き遠征となった。

9月10日、成田・TG677便16:55→21:25BKK,空港内のホテルで宿泊

11日、BKK09:30→13:40KTM着、ガンジョン・ホテルにチェックイン。

連絡先のエージェント(Cosmo Trek & Services)事務所を訪問。

ヒマラヤ・クロニクラーのElizabeth Hawleyさんが待機しておりインタビューを受ける。
「05年フランス隊はBCまで入れず。06年フランス隊は山塊にも達せず。スイス隊はBCに辿り着けず1名が死亡した。また、ドイツ隊は登頂できなかった。この2年間は誰も入っていない。成功すれば第5登目だ。」と彼女の集積データ情報を教えてくれた。

同行シェルパ:
サーダー:Ang Phari Lama(62)・・・今回で102回目のヒマラヤ登山のベテラン。
クライミング・シェルパ:Dawa Chiri Sherpa(42)・・・8,000峰を17回登頂。
コック:Jagathis・・・チョー・オユ登山時のコックさん、
コック・アシスタント:3名、

政府登山局 (Ministry of Tourism & Civil Aviation, Tourist Office, Government of Nepal)を訪問し、担当部長からbriefingを受ける。「環境破壊をしない、登山道具や食糧の残りなども全て放棄せずに麓まで下ろす。下山時に下ろしたプラスチック容器、空缶、ゴミ類はジョムソムの登山局の出先かカトマンズの当局まで持参するように等」けっこう環境問題に神経質になっている。喜ばしいことだ。

タシ・カン峰はネパール登山協会(NMA)の管轄でなく6,500m以下にも拘らず政府登山局から登山許可を取る必要がある。そして、登山手数料$200の支払いと環境保護協力のデポジットとして$500を別途収めた。

12日、Cosmo Trek社と登山について各種打ち合わせし、契約書に署名。

13日、大型ジープでカトマンズ発、6:00→12:00ポカラ,昼食13:00→15:30ベニ着。Mustan Lete Hotel泊。

14日、現地のジープでベニ発7:30→タトパニ→ガサ(ジープ乗り換え)→14:30マルファ(標高2,670m)着。TBCとなるSun Rise Hotel 泊。
モンスーンが空けきらず降雨が続きポカラからマルファまで徒歩の可能性もあったが何度か泥濘でスタックしながらもマルファまで車が入れて日数的にも3日ほど短縮できた。

15日、ロバ使いとの契約などで1日過ごす。河口慧海記念館の位置も確認した。

16日、8:10キャラバン開始、(ロバ8頭、ロバ使い4人、ポーターはなし)→14:45カルカ・テント・サイト(4,030m)着、宿泊。初日から一気に1,360m登る。

17日、:高所順応のため終日近辺散策。
快晴の朝、目前にはニルギリ、ティリツオ、アンナプルナが峻立している。

18日、6:30発→15:00ダンプス・パス(5,258m)→16:00ヒドン・バレーT.S.(4,750m)着。宿泊。
ダンプス・パス付近とヒドン・バレーへの下りは10〜20cmの雪がついていた。トレースもケルンもない。ヒドン・バレーに入ってからも静かだった。この日も1,230m登って510mの下り、昼食も立ち食いするほど時間に追われた。体調は快調だったが10時間近くを要する長い一日だった。
朝歩き出して1時間弱、カルカの裏山を登りきり稜線に出ると眼前にトウクチェ・ピークとダウラギリT峰が現れた。凄い景観だ。丁度、アンナプルナとダウラギリの八千メーターの巨峰の中間に立っていたのだ。
ダンプス・パスから目指すタシ・カン峰が見えた。一旦ヒドン・バレーに下ってタシ・カン山塊を登るのだが、地図と見比べてもアプローチ・ルートも判らない。

19日、ヒドン・バレーTS 7:45発→14:50タシ・カンBC(5,280m)着、
ヒドン・バレーの広い川原にはトレースもケルンもない。ロバ使いも初めてだと言う。
歩き始めてからもシェルパ、ロバ使い、私の三者で何度か打ち合わせて、入山路を探った。タシ・カン近くではロバ使いが「山稜は土が軟らかくロバには不適」と主張し、氷河の末端にあたるゴルジュの中を登った。氷河が後退しているのか心配された氷部分が消失していた。ロバが入れる最も奥まで入ることができ、現在の氷河末端部にある池の近くまで荷上げができた。

20日、休養日。74歳の誕生日、全員で安全祈願プジャを行う。

21日、ルート偵察とルート開拓。
シェルパたちは氷河舌端部から氷河を遡行してルート開拓に当たる。
私は氷河左岸の5,400mの小山まで登って氷河の状況を俯瞰する。
7:00に偵察兼ルート開拓に出かけたシェルパ二人は13:45BCに帰着。氷河の表面状態が良く、6,070mまで達したと。順調な進捗に喜ぶ。
好天が続いているので早く登りたいとのシェルパの言い分通り、翌日アタックに出かけることにした。

22日、サーダーの読経でプジャを行い、12:10に出発(*)。氷河舌端部の氷壁を避けて右岸のサイドモレーンを進むとシュルンドもなく氷河上に乗り移ることができた。大小クレバスもあり、傾斜も急になりフィックス・ロープを張りたいが持参したのは600m。シェルパ曰く「明日の稜線で使いたいので、ここでは使えない」と。3人のコンティニアスで安全を確保しながら南稜のコル状になったところまで出た。16:00着。
そこから南稜が頂上まで見えた。稜線の西面は急傾斜の雪面で覆われており、また稜線の上には大きな雪庇がビッシリと頂上まで続いているのを確認した。
稜線上は風が強く寒さが厳しいので50m程引き返し、傾斜のある雪面を削ってテント・サイトとし、AC(5,800m)を建設した。
*、朝早く出ると寒いACでの待機時間が長くなる。天気も落ち着いているのでAC到着時間を見越しての遅い出発となった。

23日、AC5:45発→11:30タシ・カン頂上11:45→13:15AC(AC撤収)13:45→14:30氷河舌端部→15:15BC帰着。

南稜の西斜面上を横切って登頂は緊張が強いられる急斜面上での連続登攀となると共に蒼氷上の雪面を切るために雪崩を引き起こす可能性が大きい。その上、稜線上には雪庇が東側に大きく張り出しており、雪庇を踏み抜く危険性が大きい。昨日、稜線上に張り出した雪庇の下(稜線の東側)と断崖絶壁となっている東面の壁の頂部の間に回廊のように雪面が上部に延びているのが観察された。大きな雪庇の下には太い氷柱が垂れ下がり雪庇自身は安定しているようだし、最近崩壊した跡もない。
この雪庇の下の雪面の回廊状のところをできるだけ上部まで詰めることにした。高度を上げるに従って斜度も増してきた。足元の右側は断崖で遥か下しか見えないが、遠くにアンナプルナやマナスル三山が見えてきた。600mのフィックス・ロープを使い果たし、最後の200m程は3人コンティニアスで登った。雪の回廊が終了し、目前に立ちはだかる雪帽子を慎重に登ったところが頂上だった。頂上は雪庇の上であり、踏み抜かないように交代で頂上に立った。
頂上から南稜(計画では登る予定だった)の西面を見下ろしたが、雪崩の発生は必至で一歩として西面に踏み出す気持ちになれなかった。また、登山中に大きな雪庇が東面に崩れて約20m程のフィックス・ロープがアルミの支柱と共に空間にぶら下がっているのが見えた。何年か前に踏み抜いたのか、或いはその後、雪庇が崩壊した時に支柱も落ちたのか判らないが、雪庇が落ちたことは間違いない。

快晴無風の頂上からの展望:東から昨年登ったチュルー山塊、マナスル三山、アンナプルナ連峰、マチャプチャレの上部、テイリツオ、ニルギリ、南にトウクチェ、ダウラギリ連峰の峰々が望まれ、西北西は遠くに雪を被った山並み、北西から北東にかけてチベット高原の山々が幾重にも重なっていた。そして北の目前に無名の6,403m峰、東北東にはツアルツエ6,343mに稜線が続いているようにも見えた。両峰ともアプローチが困難なため殆んど手付かずの状態であることが判った。

長居は無用と下山にかかった。登頂時には気にならなかった足元の東面の絶壁の凄さに恐れながら緊張の連続でACまで下った。フィック・ロープとAC撤収をし、重荷を担いだ撤収となった。昨日登ったヒドン・クレバス帯や氷瀑地域のクレバス帯を下山する時、緊張を強いられるコンティニアスとなった。
氷河舌端部近くまでアシスタントが冷やしたジュースを持参で出迎えてくれ、重荷からも開放された。
シェルパやコックさん達のお陰で無事第5登を達成することができた。満足感に浸る一夜を迎えた。

24日、アシスタントの一人がロバを呼ぶために早朝に下山の途についた。濡れた衣類の天日干しなど片付け物をしながら終日休養した。

25日、BC近くの写真をとって散策したが、夕方までにはロバは来なかった。夕方の上空に雲が多くなり、ニルギリには雷雲が発生し夜には稲妻が見えた。できるだけ好天の内に下山しようと明朝、サーダーと二人で下山することにした。

26日、朝食後8:00に下山しかけたところに、昨晩ヒドン・バレーで一夜を明かしたロバとロバ使いたちが上がってきた。
本日は一旦、4,700mの谷底に下って、5,258mのダンプス・パスまで登り、マルファ村まで下山する予定だ。長々場の下山だ。後は皆さんに任せてサーダーと二人で出発した。ヒドン・バレーの川床に飛行機のプロペラが落ちていた。スイス隊がダウラギリ登頂の際に事故ったものらしい。ダンプス・パスへの近道とゴルジュを遡行したところ機体の破片が沢山残骸として残っていた。12:45にダンプス・パスに到着し、早々に昼食を食べて先を急いだ。14:45に我々の荷物を積んだロバが7頭追い越して行った。炊事道具など重荷を背負った我々のアシスタントの二人は随分遅れているようだ。ダワチリ・シェルパに指示をして本日はマルファ村まで下山せずに入山時に泊まったカルカで幕営するようロバ使いに伝えるように依頼した。何とかダワチリがロバ隊に追いついた。
案の定、遅れに遅れたアシスタントがカルカに辿り着いたのは日没寸前18:00であり、私自身も夜中に歩くような危険なことをせずに助かった。
歩けど歩けど景色の変わらない長い一日だった。

27日、9:00下山開始、13:00マルファ着。
昨日はロバ使い1人に出会ったが本日は誰にも会わない。下りっぱなしの最終日だった。
皆さんを招いて無事登頂を祝う夕食の席上、サーダーから「楽しい登山であり、無事登頂できた」と喜びの言葉と共に「マニ車と卓台」の贈り物をいただいて感激し恐縮した。

28日、ダワチリ・シェルパ、コック、アシスタントは登山道具などを路線バスの屋根に積み込み帰途についた。私とサーダーはマルファ村に残り、河口慧海記念館を見学するまで居残ることにした。本日も鍵がかかっていて見学できず。

偶然マルファ村のお嬢さんとポカラの男性との結婚式が”Marpha Public Hall”で行われており、垣間見ることができた。因みに、このホールの入り口の外壁に日本語で「ムスタン王であり上院議員でもあるシグミ・パルワル・ビスタ氏は河口慧海を偲び私達の協力者であるマツシゲ・カツミチ先生の協力で建てられたマルファ村民ホールの開所式を挙行しました。2002.09.14」と書かれた真鍮の金属板が貼ってあった。日本人の協力で建設された会堂が地元の方のお役に立っているのを見て嬉しかった。
また、このマルファ村は宮崎県諸塚村と「茸」の件で提携し、互いに訪問しているようだ。マルファの方からも聞いたし、諸塚村のホームページにも掲載されている。

29日、やっと「河口慧海記念館」の管理者にありついた。さっそく、表門を開けていただき中庭に入った。表通りに面した綺麗さに比べ、やや古い建物の印象を受けた。早速2階に案内された。記念館の展示室に入ると110年前の河口慧海師の生活様式や用具が展示され、在りし日を偲ぶことができた。そして一旦この部屋を出て数段階段を上がり回廊に出て別室に入った。布に包まれた経典が大きなコの字型の棚、3面に整然と保管されている。驚きで体が硬直した。よく見ると経典の下には仏像や絵画などが展示され、河口慧海師の写真なども鮮明なものだ。等身大のマニ車や太鼓もある。経典が保管されているコの字型の棚の裏を廻った。布絵や絵画などで壁面は飾られていた。
こんな僻地で誰がこのように立派な記念館を造り、しっかりと管理しているのか知りたかったが案内してくれたのは小学校3〜4年生ぐらいの女の子で全く意思が通じなかった。
参考までに表通りの案内を意訳すると
「1899年、日本人の禅僧でヒマラヤ探検・冒険家である河口慧海がラサへの巡礼を続ける前にマルファ村の村長アダム・ナリンと共に3ヶ月過ごした。マルファの人々はこの偉大なる人物を受け入れたことを誇りに思い、このヒマラヤの村に彼が滞在した100年記念に河口慧海師に最大の敬意を表したい」

入山時にジープでマルファまで入れた。キャラバン・登山時は高所順応も順調で予定より2〜3日早くBCを建設した。荒天での活動中止もなく、体調不調や蒼氷で敗退し再起を期すこともなかった。こんなことで予定より10日以上早く登山活動が終了した。その上河口慧海記念館に入り,観賞することができた。この予備日を活用すべくヒンズー教徒とチベット仏教徒両者の聖地・ムクチナートを訪問することにした。
30日、マルファからトラックターの上乗りでジョムソム空港前まで行き、数百m歩いてジープ始発点に移動。超満員のジープでガタガタと揺られながら2時間ばかりでムクチナート(3,760m)に着いた。昼食後、聖地Muktinath Temple参拝に出かけた。ヒンズー教徒と仏教徒が山から曳いた水を頭からかぶり水浴をしたり、お祈りをしている。本来山奥で静寂な聖地だっただろうが、今や山門前までバイクが入り聖地を台無しにしている。西に目線を上げると登ってきたタシ・カンが聳えていた。ムクチナートから一番近い山だった。

10月1日、早朝満員のジープに乗った。カグベニで下車し聖地訪問、一泊の心算がジープから降ろされた所はジョムソムだった。満員のジープの中から景色が一切見えず、他の客もカグベニで降りなかったので乗り過ごしたのだろう。
ジョムソム空港前のHotel Trekkers Innに宿泊した。ホテルの前に日本語で「NPOネパール・ムスタン地域開発協会」の看板有り。訪問したところ、近藤亨氏(1929年生まれ)が主宰する「ネパール・ムスタンに暮らす人々に農業と教育と医療を教える写真展」が展示されていた。現地に溶け込んで活躍する方々に敬意を表したい。

2日、ポカラへのフライト、満席で休養日となった。
ヤク・チーズ、ヤク・ステーキが実に美味い。

3日、早朝4時に同行のサーダーが起こしに来た。キャンセル待ちで席が取れたと。荷物は梱包してあったので早速空港に走った。既に沢山の人が並んでいた。間もなくチェックインが始まった。ビクビクしていたがチェックインできた。
7時過ぎには1番機が来た。続々とやってくる。4番機がAgri Airだ。
18人載りの小型機、両窓側に1列の座席、タシ・カンが見えるかもしれないと右窓側に座ったが飛行機はカリガンダキ河の山間を飛ぶので高い山は見えなかった。その上、今までにない雲が上空に出ていた。
ポカラでは日本人とネパール人が共同経営するMum’s Garden Resortに宿泊した。

4日、昨日昼過ぎから雨が降り出した。ジョムソムへのフライトは全てキャンセル。
早朝から“International Mountain Museum”迄歩いて行き見学した。内容は充実しており一日かかっても見切れなかった。見学者はネパール人やインド人がひっきりなしに出入りしていた。夕方には一瞬晴れ間が広がりマナスル三山が綺麗に見えたが、目前にあるはずのアンナプルやマチャプチャレは見えなかった。広大な庭には21m天蓋つきのモーリス・エルゾーグ壁と称したクライミング・ボードもあった。

5日、昼食に気になっていた” Fish Tail Lodge”出かけた。”
Phewa湖“をロープの引き舟に乗って50m程対岸に渡った。別世界のような施設だ。庭、建物、観葉植物や色とりどりの花など信じられない光景だ。一番乗りで昼食を取ったが美味かった。入り口には皇太子殿下や秩父宮妃殿下来訪時の写真が英国ダイアナ妃の写真などに混じって飾ってあった。

6日、4日連続の雨だ。空港に行ってみた。カトマンズ便は3時間後には飛ぶかもしれないが、ジョムソムなど他の便は全て欠航とのこと。待っていたところ4時間後に雨雲の中を離陸した。右手にアンナプルナ、マナスル三山が並んでいるはずだが終始ガスの中だった。
空港からCosmo Trekに直行した。事務所に入って振り返ると後輩の山本大樹君を含む日本山岳会学生部登山隊の6人が下山してきた。パンボチェの初登頂はできなかったがサムド峰(6,335m)の初登頂は果たしたと嬉しい報告有り。その夜は私の宿泊しているホテルの「Tibet Restaurant」にて7人で祝杯を挙げた。

7日、Elizabeth Hawleyさんのインタビューを受けた。登頂を喜んでくれた。氷河や稜線の状況、傾斜角度、など詳しい質問が続いた。近辺の未踏峰について情報もくれた。
この数日間の大雨で西ネパールでは山崩れ、洪水が相次ぎ沢山の死者が出ていると。

雨の中、政府登山局にRe-briefingに出かけた。ゴミ類は全て降ろし、ジョムソムで証明書を貰っていたので全額取り戻すことができた。面談担当者から「何かサジェスションはないか?」と話しかけられた。「ムクチナートのような聖地は静寂を保って欲しい。その為にバイクは聖地の100〜200m以内には入れないよう規制しては如何でしょうか。さもないと外国からのトレッカーなど訪問者が来なくなる。また、聖地巡礼者に失礼だ」と話したところ、大きなノートブックにビッシリと書きだした。役に立てば幸いである。

夜はサーダーのAng Phari Lamaが明日から日本人とアイランド・ピークに出かけるとのことで送別の会食をして送り出した。

8日、雨の中、ターメルに出かけ本屋さん漁り。地図を買い込んだ。本は重くなるので困る。

9日、曇天、やっと洗濯をする気になった。

10日、やっと晴れ間がでた。JAC学生6人と一緒にコスモ・トレックの大津さん宅の夕食に招待を受けて奥さん手作りの日本食をご馳走になった。美味かった。

11日、やっと夜中も空の半分くらいは星が見え出したので、明日はカトマンズの北、車で2時間ほどのカカニの丘に宿泊し、ガネッシュの山々を見物に行くことにした。「カカニの丘」まで明日送り、明後日ピックアップするタクシーを予約した。2日の合計で$80。

12日、ホテルの朝食時に同席した福岡・労山隊の人からタシ・カンを狙ったが、初日の夜からカルカで大雪が積もり、ロバが進めないので退却してきたと聞いた。

13:30タクシーでカカニ(2,100m)に出かけ、14:00前に山頂稜線上に建つ“Tara Gaon Hotel”に入った。夕方、薄っすらと見える白雪の山々を見ながら、オヤジ曰く「今年はモンスーン明けが随分遅れて、まだ山々がすっきりと見えたことがない」と心配顔で説明していた。

13日、早朝5:30に眼覚まし時計をセットして就眠したが、小便ごとに窓越しに空の様子を眺めていた。5:50ひときわ高くヒマール・チュリが輝き始めた、右にマナスル、左にバウダ・ピークを従えて。ガネッシュそして近くのランタンの峰々が輝き、左のアンナプルナもピンク色に染まった。シシャパンマとチョー・オユー、エベレスト方面が薄雲で見えなかったが、10頃まで芝生の庭に置かれた椅子の上で朝食を食べ、この景観に惹き付けられ見入っていた。

14日、コスモ・トレック社の中庭に山岳部後輩の大橋隆平君が品揃えや棚の設計をしたモンベル・カトマンズ店がやっと開店状態になった。

15日、遅くても10日には帰国できたが、後輩の中島健郎君の呼掛けで山岳部仲間がネパール・トレッキングに来るので15日まで滞在する航空券を手配していた。随分とネパールに長居をしてしまった。
13:50発TG320便、機窓からエベレスト、カンチェンジュンガなどネパール東部のヒマラヤが1時間近くも見えていた。BKKでトランジット後、TG640便に乗り
16日、早朝6:05NRT空港に帰着した。

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