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2011年秋、ネパール・ヒマラヤのPaldor 5,928m峰

ネパールの首都カトマンズから真北にあるガネッシュ・ヒマール山塊の一つパルドール峰( 別名Bharange)を目指した。
天気が良ければカトマンズの空港からも見ることができる。カトマンズからガネッシュ・ヒマール山塊の一番右端に見える綺麗なピークだ。

9月23日:成田発、バンコック空港内のホテルで一泊後、翌日24日カトマンズ入り。

25日:少し買い物をしたが、旅の疲れを癒し休養日とした。

26日:午前7:15、雨の中、チャーターした中型バスで出発。登山道具・食糧と共にサーダー、シェルパ、コック、キッチン・ボーイ、アシスタントと7人のポーターが同乗。トリスリでティー・タイム。その後、舗装した細い山道となった。10時過ぎ、雨で車道が崩壊しているところに出くわした。引き返しかと思いきや1kmほど先にトラックがいるとのことで荷物は全員でピストンして運ぶことになった。2箇所、山からの泥水が幅50m程に広がって流れており、急斜面でいきなり泥中の行進となった。2時間ほど費やして前方のトラックに荷物とメンバーも乗り移った。1時間ほどで又もや道路崩壊現場に出くわした。ここでも前方にトラックがいるとの情報で風雨の中、1,5km程先まで荷物を持ってピストンし本日3台目の車に乗り込んだ。運転手はシャブル・ベンシから戻ってきたところだと言うので安心していた。
ところが宵闇迫るシャブル・ベンシの数km手前で谷の濁流が道路に流れ込み、道路をまさに崩壊している現場に出会った。トラックの運転手は恐る恐る安全圏までバックした。全員が重荷を背負い大雨の中、シャブル・ベンシを目指した。
いきなり現地の人たちの生活路だろう。ヘッドライトを灯して急傾斜の細道を下った。舗装道路の路面全体が50m程に渡って本流側に数mほど落ち込んでいるところや泥水が滝のように流れ落ちる所、膝近くの深さの流れの中、ヘッドライトを頼りにサーダーとがっちり手を取り合って歩いた。暗くて見えないが下に流れる本流の音が腹の底に響いていた。雨中の夜間行進中、時たまホタルが飛び交う姿を見ることができ心を癒してくれた。
本日はGothenまで行くつもりでいたので午後2時頃に車で通過するはずだったShabru Bensi(1430m)にやっとのことで辿り着いたのは午後20:30だった。

下山する人と当日我々より先に辿り着いたトレッカーたちが重なり、空き宿はなかなか見つからなかったが何とか全員が泊まれるロッジ、TIBET HOTELが確保できた。みんな全身ずぶ濡れ、一息ついたとき首にかけていたカメラが無いことに気が付いた。

27日:トラック道の終点Gothenまで行きたいが車道は崩壊して全く利用できないとのこと。薄日が射し始め物干しデー兼休養日となった。このシャブル・ベンシはランタン谷トレッキングの拠点であるが、この先トレッキング道も崩壊箇所があり通行禁止になっている。シャブル・ベンシ周辺の道路復修工事をするのはナンバー・プレートに西蔵(チベット)の蔵が頭に付いた大型の中国製のショベル・カーやトラックが中国人の運転のもと大活躍していた。一般には解放されていないが、既にチベット国境からネパール内シャブル・ベンシまで大きな道が通じているのだ。

28日:現地でチャーターしたトラックが電気トラブルで動かず、2台目も駄目。3台目のトラックに荷物を積み込んで9:30に出発。舗装なき道路の崩壊箇所は改修されていたが峠までの1時間半は落輪すれば奈落の底間違いない険しい悪路だった。峠から北に世界遺産に登録された密集集落Chilimeが良く見えた。その後は比較的高原状の山麓を横切ってGothen(2,560m)着。草地にテントを張る予定だったが、草地は全てぬかるみ歩くと足跡に水が溜まる状態。民家にお願いして軒下と1部屋を借りた。
シャブル・ベンシで新たに2人のポーターを雇い入れたが、カトマンズから連れて来たポーターの一人がこれまでの日当を手にして逃げたらしい。トラックに乗っていなかった。

度重なる荷物の積み替えで石油コンロ2台のうち1台が破損していた。2時間かけて修理か新品を買うべくシェルパが近隣の集落を探しまくったが何処にも無かった。村人は全て薪を燃料にしているので無理もない話しだ。

29日:小雨、ゴテンでも2人のポーターを追加雇用した。8時にキャラバンを開始した。歩き出して直ぐに森林火災の跡地を通り抜けた。幅、奥行きとも数kmあった。5年前、自然発火し乾季の12月から翌年6月まで燃え続けた。まだ立ち樹ではあるが根元から数mほどの木の皮が黒焦げになっており再生不可能のようだ。3時間半ほどで印象的なチョルテンのあるJarsadanda峠、そしてKhurpudanda峠(3260m)を迂回してMailung Kholaを渡り4時前にSomdong(3270m)着。ここも地面がぬかるみテントが張れる状況でなくロッジ泊とした。電線は来ているが亜鉛鉱山を閉鎖した以後は通電されていない。

30日:晴れ時々小雨、3時間で無人のPaigutungKharka(3540m)着、昼食。このカルカから目的地が遙か上に見えており、またもや一歩として下りのない急坂を2時間近く登り続けてLari Mine(4110m)着。ここは通称ジャスタ・カニと呼ばれている亜鉛鉱山跡。雨は降っていたが排水の良いサイトがあったのでテントを張った。新品で浸水の心配もなく安心だった。まだ坑道、建物、大きな配管類は残っており、再開の予定であると下山時に見回りに来た2人の管理人から聞いた。

10月1日:雨、雪。4000mを越えたがSPO2値、血圧も順調。小雨が降る中、2時間でBC(4280m)着。テントを張って中に入った時には雪になりBC付近は白一色に彩られた。
夕方、雨も雪も止み見通しは良くなったがパルドール本峰は見えない。サーダーとシェルパをテントに招き、持参した資料や写真でBCからACへのルート、ACの位置、ACからのアタック・ルートを説明し、彼らの理解に務めた。

2日:ガス、曇り、雨、雪。朝方冷え込んだ。コック長が「パルドールが見える」と起こしに来た。周辺にガスが立ち込めていたが、ガスの中にポッカリと穴が空き、その中に真っ白な頂上を持つパルドール峰がやっと姿を現した。
サーダーとシェルパは早速ルートの確認に出かけた。BCから見たのと違い、パルドール東氷河に出るには戸惑いもあったようだ。自分は250mほど高さを稼ぎ高所順応に務めたが、帰路は小雪が降りだし下山を急いだ。

3日:起床時快晴、その後ガス、雪、雨。サーダーとシェルパのルート工作に同行し3人のポーターも荷上げ。
パルドール東氷河右岸のFang峰基部のシュルンドと氷瀑が重なる複雑なクレバス帯にフィックス・ロープを100m程セットし、目標の氷河本体5300m地点までルートを開発したと。自分はパルドールへのルートをたどり高所順応のため300mほど高度を上げて往復した。

4日:ガス。9時頃に薄日が射したがその後もガスで寒い一日だった。
サーダーとシェルパが休んでいないので休養日とした。但し、私は1時過ぎから2時間ほど高みを往復し体をほぐした。
BCのある谷の突き当たりに小さな滝がある。この滝はパルドール西氷河の舌端部にできた氷河湖の様なところから流れ落ちていた。この落ち口からガラ場を東方向に進んで目標の東氷河に登るのが私達のACへの登高ルートである。東氷河の舌端部は谷の突き当たり手前、BC寄りに垂れ下がっているが無残に崩壊したクレバス地帯で登降は全く不可能である。その為一旦、パルドール西氷河の舌端部まで谷を詰めてからパルドール南東稜の末端をトラバースして東氷河に乗り移るのだ。

5日:快晴、ガス。本日荷上げのポーターは荷を運び終えてからBCまで引き返す要あり。こんな事でシェルパとポーターは先行した。私は余り早くAC入りしても寒いテント内で過ごすことになるので8:15、サーダーと一緒に出発。4時間ほどゆっくり歩いたところに後方からキッチン・ボーイが「食器持参を忘れている」と急ぎ足で追いかけてきた。そこに不自然な顔つきで先行したポーターが降りてきた。一昨日ルート工作に同行したポーターがシュルンドとアイスフォールが交差した複雑なクレバス帯のスノー・ブリッジの登攀と通過怖くなったのだ。ポーターは遠くにクレバス帯が見えたところで荷物を置いて逃げてきたのだ。サーダーは何とか自分自身とシェルパでポーターが放棄した荷物を担ぎ上げるしかないと判断したようだ。
サーダーとシェルパでまず自分たちの担いでいる荷物を5300mまで荷上げし、ポーターの置いていった荷物を取りに戻って来たいと言い出した。往復時間を計算すると暗がりの行動になり、ひいては食事や寝るのが遅くなり、早朝2時頃の出発には無理がある。そんなことで残念ながらFang峰の東麓、シュルンドの手前にAC(5150m)を建設した。テント2張りが完成したところでサーダーがガス・シリンダーを含む炊事道具は5300mに上げてあることに気がつき、今からクレバス帯を一人で登り取りに行くと言い出した。危険承知で行って貰うしかない。空身で出かけ、約1時間後に戻って来て炊事が始まった。また、シェルパはポーターの置き逃げした荷物を回収するため一人で氷河上を下り半時間余りで戻ってきた。

明日はクレバス帯を乗り越えたAC5300mからの出発であり、登頂を確信していただけに予想しなかったトラブルに憤りを感じた。ポーターが嫌ならBC出発前に言ってくれれば、早く出発するなり或いは足早で登ってアイスフォール部分のピストン荷上げも出来たのに残念でならない。

6日:快晴、ガス。1時に出発できるよう指示したが3時の出発となった。サーダーの時計が故障し、シェルパは時計を持参せず。シェルパが私に時計を貸して欲しいと言ったので貸した。12時に起きて、軽食を準備するよう指示していたが2時過ぎに起きたようだ。私が度々小便に起きるので腕時計を貸さずに私が起こすべきだったと反省している。

50mのメイン・ロープのミッテルに入り、ガチャ類一式を体につけて早速シュルンドのスノー・ブリッジ帯に入った。一昨日設置したフィックス・ロープにユマールを掛け迷路のようなスノー・ブリッジの連続登攀だ。ヘッドライトで照らし出されたスノー・ブリッジは浮かぶように見えるがスノー・ブリッジの下や左右底なしの大小クレバスは不気味なほど透き通った青い色を呈している。
緊張の連続1時間ほどで本来のAC予定地点5300mの氷河本流の上に出た。薄明かりの中にパルドール峰が手に取るように見えた。足元もしっかり見え出したので、大きなヒドン・クレバス帯を2箇所迂回して、だだっ広いパルドール東氷河の鞍部、Windy Col方面に向かって斜め上に登って行った。大きな岩峰の陰になって見えなかったWindy Colを確認(Windy Col周辺の稜線上に北側へ大きな雪庇が張り出していたのが見えた)した所で方向を転換し岩峰基部のスノー・リッジを互いに確保しながらパルドール方向に登った。見かけより急斜面で足元の氷も硬く、登攀に時間を要した。岩峰基部を登りきったところで最初の腹拵えをした。手前のパラドールII峰に続く稜線上には北側に張りだした大きな雪庇が見える。
一休み後、雪庇を踏み抜かないよう注意しながらII峰の基部(5640m)に9:30に到着。登ってきた尾根からII峰の基部に取り付くのに10m弱の氷雪に覆われた痩せ尾根があり、サーダーはフィックス・ロープ工作をしている。その間に今後の行程の時間読みをした。II峰(5743mm)の頂上までは石ころと氷の混じったガラガラの急斜面でお互いロープでの確保は必要だ。標高差は100mほどだが最低1時間は要するだろう。II峰からは一旦下り、2つほど小さなコブを越えてT峰の基部に下り立つ。T峰登頂には氷雪の稜線の登攀が強いられる。II峰から随分下ることになるので登頂まで標高差は侮れない。II峰基部から3〜4時間はかかるだろう。下りも急斜面のため登りの半分では無理だろう。その上、ACからここまでの標高差約500mの登高に6時間半を要している。

暗くなったBC手前のクレバス帯の中、急傾斜のスノー・ブリッジ上を疲れた足でアイゼンを利かせながら下降することは至難の業。アイゼンを氷雪面に置くだけではスリップするのは間違いなし。こんな危険なことは避けねばならない。

フィックス・ロープをセットし終えたサーダーにここを最終地点としようと提言したが、彼は絶対昼過ぎには登頂できると納得しない。「私も目の前に聳えるパルドールI峰には登頂できると思う。しかし、冷静になって時間読みをするとクレバス帯の危険なスノー・ブリッジの下降は暗くなる。非常に危険だ。疲れた足、踏ん張りの効かないアイゼンで幅の狭いスノー・ブリッジを下降することは滑落に繋がる。絶対に避けたい」と説得した。サーダーも自分なりに計算して時間切れと状況判断に納得した。

ゆっくりと景観を楽しんだ。首が痛くなるような角度にパルドールII峰があり、一旦下った小さなコブからパルドールI峰頂上への氷雪の稜線が手に取るように見える。登ってきたパルドール東氷河は氷河舌端部がFangの影で見えないため四方を針峰に囲まれた大きな氷原に見える。しかも、東氷河本体の中心部には無数の細かなクレバスがあちこちに並んでいて綺麗だが恐ろしい。東方にはランタン山群主峰のランタンリルン(7225m)をはじめランタンの山々が 間近に見え、その左に大きなシシャパンマ(8027m)とチベットの山並みが見える。北方は雪庇が張り出し覗き難いが大きな岸壁の岩山や遠くチベットの山が見えている。

11時に今回の最高到達点5640mから下山の途についた。ACが予定の5300mに建設できておれば大きな2本のヒドン・クレバスだけ避ければ暗くなっても下山には支障のないような表面が綺麗な氷河本体を下るだけであったのに、と悔しさが込み上げてきた。急な斜面では懸垂下降を数回繰り返して下山を続けた。早朝歩いた氷雪の上に足跡が殆ど残っておらず、何度か立ち止まりトレースを確認して下った。明るい内に危険なクレバス地帯の下降にかかった。右足がスノー・ブリッジを一度踏み抜いたがフィックス・ロープの御蔭でクレバスに吸い込まれることなくBCに15:30に帰りついた。II峰基部から引き返したが、こんな時間になった。やはり時間切れで断念したことは正解だった様だと自分に言い聞かせた。

7日:快晴、雪、夕方から晴。BC付近でヒドン・クレバスを警戒しながら写真を撮って歩いた。パルドール東氷河本体の中流域の真ん中まで行ってみたいが大小クレバスが口をあけており、周辺部はヒドン・クレバスが沢山隠されている様子で諦めるしかなかった。満載の荷物を背負ったサーダーとシェルパと共に下山の途についた。途中でキッチン・ボーイが荷下げの手伝いに上がってきた。パルドール西氷河舌端部には氷河湖があり、その上に岸壁と針峰からできたPaldorWestPeak(5510m)がガス間に垣間見えた。パルドール西峰もかなりの難峰に見え、その手前のPhutaPeak(5110m)も岩が剥き出しになった急峻な岩峰で手強そうだ。

夕食後、無事下山を祝いコック長が腕を振るって直径30cm以上もあるケーキを振舞ってくれた。全員にお裾分けしたあと、残った3切れを日本式ジャンケンで取り合い大いに盛り上がり、お馴染みのレッサン・フィリリをみんなで歌い踊った。

8日:快晴。BC設営後3人のポーターにはSomdongで待機し、本日登ってくるように指示していた。彼らは昨日Lari Mineの軒下で仮眠し7:00には早々と到着した。
若い3人のポーターはACまで登り、昨日残してきた荷物を持ち帰った。

9日:快晴、8時過ぎBCの片付けを確認して下山の途についた。何度もパルドールを振り返った。往時は雨で全く見えなかったパルドール、振り返るごとに容姿が違って見えた。Lari Mineまで2時間近くかけて余韻を噛み締めながら下った。Lari Mineでは残された坑道内など見学したが、ここからは急傾斜の下りが待っていた。途中から石楠花林の素晴らしいトンネルを抜け13:30にはSomdongに着いた。今回はテントを張った。今回の登山で初めて下着などの洗濯もした。

10日:日本から出発前、日本ヒマラヤ協会常務理事・岩崎洋さんからSomdongの奥にマナスル三山が良く見えるPansang峠(3850m)があると聞き、大いに興味があった。6:30に出発。いきなり急登だが、途中1回写真を撮っただけ、休憩無しで9:20分に到着した。
間に合った。到着後数分間、遠くに湧き出るガスの切れ間にマナスル、P29,ヒマルチュリ、バウダの容姿を見ることが出来た。その後は大きな雲に覆われてしまった。ブリガンダキの南の方からガスが発生し、ガスは北に向かって流れ、尾根を駆け上がって山を覆った。05年、06年にマナスル登山で体験したのと同じ現象だ。
一方、間近なGanesh Himal山塊は真北に有りGaneshW峰(7,110m)、II峰(7052m)は手近かに見え迫力があった。その右に連なるI峰(7429m)、X峰(6816m)、Paldor峰は峠から続く尾根の影になり残念なことに見ることはできない。真東にはランタンリルンが競り上がって高く見えた。

1時間ほど景観を楽しみ、長い道のりをゆっくり下り、テント・サイトに13時半に帰着。

11日: 快晴、8:10出発。Somdongから自動車道をだらだらと登り、途中から生活道路を急登。Khurpudanda(3620m)峠を迂回しながらJarsadandaまで登り、チョルテン脇で四囲を眺めて一休み。林間を下り始めると森林火災跡近くで頭上にwhite monkeyの群れがいるのを見かけた。16:00にGothenに帰着、長い道程だった。
入山時に泊めてもらった宅に再度泊まった。夕方、丘の上のゴンパを見学したが、見かけより大きく内部は荘厳な飾りに満ちたゴンパである。民家は数軒しかないはずだが大勢の人たちが集まってお経を唱えていた。夜遅くまで読経の声が聞こえた。 

12日:晴。昨夜遅く車が通りかかり、今朝できるだけ早く来て欲しいと頼んだとのこと。
本日はトラック待ちのために休日で、徒歩で3時間ほどにあるネパール最大の天然掛け流し温泉Tatopaniで汗を流すか、ランタンの山々を眺めながら体を労わるかの心算だったがこの秘かな計画は吹っ飛んだ。8:00に出迎えのトラックが来てしまった。入山時は泥道だったが道路は乾き快適な2時間余のドライブでシャブル・ベンシに着いた。往時と同じTibet Hotelに入った。
久し振りの太陽熱を利用したホット・シャワーに寛いだ後、警察を訪ね入山時にカメラを失くした事を届け出た。警官は道路脇に砲眼を開けた土嚢を積んだ中で立ち番をしていた。紛失届けとして一枚の紙に手書きした届出書を提出したがポケットに入れてしまった。カメラを見つけた人が届けてくれても戻ってこない気がした。

13日:晴、6:30発カトマンズ行き定期バスの屋根に共同装備など大きな荷物を積み込み、シェルパ、ポーター達6人は帰途に着いた。私とサーダー、コック、キッチン・ボーイの4人はカトマンズから出迎えに来たランクルでカトマンズに向かった。
入山時、大雨のためにシャブル・ベンシまで20km程は道路があちこちで崩壊していた。しかし帰路で危なかしい所は急カーブで未だに谷の水が道路に流れ込み、濁流で底面が見えない所が一箇所あっただけだ。舗装した路面が50mほどにわたり崩れ落ちていた部分を含め殆ど復旧されていた。不思議なほど手早い復興作業だ。
トリスリで休憩後、車は山道に入った。暫くすると「カカニの丘」が見えてきた。運転手に相談すると、途中からカカニの丘を往復する。約3kmを1,000ルピー(約¥1,000)でOKと了解を取り付けた。ところが俄かに濃いガスが南から湧き上がり、ドライブも危険なほどの濃霧になり「カカニの丘」行きは実現できなかった。その後しばらくして、谷の急斜面に転落したバスが放置されていたのが見えた。13:30カトマンズに帰着。

14日:昼過ぎ、CIWEC Clinic Travel Medicineを訪ね、紫外線焼けで化膿した唇用に5日分の抗生物質と塗り薬を貰った。
夕方、ホテルに同宿していたICI石井スポーツ主催「山野井泰史、妙子夫妻と行くアンナプルナ内院トレッキング」の夕食会に引率責任者ICI越谷さんから招かれ参加した。30名のトレッカーと共に昨日、エージェントやレストランでお会いしていた谷口けいさん・平出和也さんコンビ(一昨年、ピオレ・ドール賞受賞、この秋はナムナニ(7694m)の南東壁登攀、南西稜から登頂し一般ルート経由でナムナニ峰の初縦走に成功)も招待されており、図らずも現役の超大物クライマー4人とご一緒することができた。

17日:天気が安定してきたので「カカニの丘」に出かけた。2年前に泊まったTara Gaon Hotelに12:20に入った。マネージャー達も当時と変わらず互いに良く覚えていた。しかしガスで視界ゼロ。ずーと停電が続いていた。夜8時過ぎ頃から雨になった。心配しながら窓から外を覗いているとガスの中にホタルが数匹飛び交っているのが見えた。その内、稲妻と雷鳴が一時間以上も続いた。良い予感を感じながら眠った。

18日:快晴、夜半トイレに起きたとき空が明るくなっていたので窓から顔を出すと下弦の月が東の空で輝いていた。5時前から期待して窓から北を眺めていた。月の明かりでガネッシュの山並みがかすかに見えるようだが錯覚かもしれないと疑心暗鬼していると6時前にガネッシュ・ヒマールI峰だけが淡いピンク色に輝き始めた。窓を開いてみると快晴だ!
やがてマナスルが、ヒマルチュリが、P29が紅く染まり、目の前のガネッシュ・ヒマール山塊の山並みはパルドール峰を含めて輝きだした。ランタン・リルンなどランタンの山々、その奥にシシャパンマも見えた。東方向は太陽光線の加減で山座同定は出来なかったが沢山の巨峰が重なって見えた。残念ながら西のアンナプルナ方面は薄いガスで覆われていた。

このホテルは国有であり、カカニの丘周辺は防衛上の意味があるのか国有地で観光施設として殆ど発展していない。最近ヒマラヤ観光の客はカトマンズから東にあるナガルコットに流れている。やっと宣伝が必要であることに気がついたらしい。昨日から観光省の役人一人とカメラマンなど広告宣伝会社の3人が同宿していた。
折角のヒマラヤを含めた取材班だがゆっくり起きて来て、ヒマラヤの荘厳なご来迎など気にもしていなかったようだ。客は私一人、ガネッシュ・ヒマール山塊を背景に芝生のテラスで、或いは寝室のベッドに寝そべり、腕枕にヒマラヤ連峰を眺めるポーズなど英語でのナレーションと共に役者気分を楽しんだ。ナガルコットよりヒマラヤの山々に近く眺望も負けない。箱物を造って運営を考えていなかったお役所仕事の典型だ。世界からの観光客の為にもしっかりして欲しい。

カカニから約1時間半でカトマンズに帰着。エージェント事務所でJAC SinguChuli=FlutedPeak登山隊の竹花隊長はじめ4人の隊員の方々と会い、昨年タルプチュリ方面から見た様子など伝えた。

23日:カトマンズ発の飛行機に乗り,BKKで乗り継ぎ、24日早朝6:00成田に帰着。
成田空港の搭載荷物引取りコーナーで同志社大学山岳部OB,ダウラギリ第2登者(この秋はランタン方面にトレッキングしていた)今成氏と出会った。

○ 初登頂時代に活躍したシェルパは殆どが現役を引退している。エベレストを含むクーンブ地方のシェルパはロッジや売店経営に転職・従事し、危険が伴う高所登山のシェルパ仕事から手を引いている。その代役として現在タマン族やロールワリンなど他の山育ちの方達がシェルパ役を引き受けていることが多い。また、福祉を掲げてネパールを席捲したマオイストの影響で若い人は甘やかされ、ハングリー精神が薄れている。その結果、ポーターのような体を張って危険な仕事に就く人は減少しており、賃金などに対する要求度も高くなっているようだ。一人のポーターが荷上げ途中で逃げ帰るといった予想しなかったハプニングに出会い、ひいては登頂も出来なかった。今後このようなハプニングは増加するかもしれない。シェルパ、ポーター共に従来の気質から大きく変化していることを痛感した山行でもあった。

シャブル・ベンシ以降は登山者やトレッカーに全く会わない静かなヒマラヤを独占してきた。この報告書を書き終え、やっと「未知のヒマラヤ秘境の世界に心をときめかし、頂上にはタッチできなかったが登頂活動まで楽しませてもらったことに感謝しよう」と言える心境になった。

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